【アニメレビュー】新世界より 〜他のセカイ系作品との比較考察〜

つい先日、山田氏に3年以上前から勧められていた「新世界より」を完走した。ゆうて25話なので1ヶ月足らずで見終えた。

感想としては、ふつうに面白かったし、考察しがいのある作品だと思った。また、終わった後の余韻として、旧エヴァなるたる最終兵器彼女lainのような突き放すような終わり方でもなく、ひぐらし祭囃子編のような超円満な終わり方でもなく、なんとなくゆゆゆに近しい、ディストピアであることには変わらないけど、暖かい終わり方だと感じた。

作品の構成としては、主人公の年齢に応じて以下のように分けられる。

1~7話 12歳(夏季キャンプ)編
8~16話 14歳(種田さん「(山田君も)早く恋人作りなよ」)編
17~25話 26歳(実質本)編

この三部構成だろうか。特段大きな展開があるのは17話以降である。

16話まで視聴するとあと9話となるわけだが(小泉進次郎構文)、ここまでの話の流れからあらゆる展開が想像された。

まず説明していなかったが、この作品の世界観について説明しよう。
この世界は現在から約1000 年後の世界である。冒頭のシーンで、なんらかの原因によって世界人口が大幅に減少し、今よりも文明の縮小した社会で人々は生きていることが想像される。また、主人公たちの通う学校では、超能力のようなものが教えられ、どうやらこの世界では皆(あるいは限定的な人々が)超能力的なものが使えるであろうことがわかる。

当初の感想としては、なぜこのような、いわばディストピアの世界になってしまったのか、嘘の真実が教えられている子供たちが、世界の真相を明らかにしていくような話になるかと思いきや、3,4話であっさり解消される。しかし、これこそ話を理解する上で必要な情報ではある。だが、この時点で視聴者はあまりの情報量の多さに、この情報が必要となる頃にはきっとわすれてしまうことと思う。

話がずれすぎたので戻していく。

考えられる展開1  神栖66町の全体主義的社会
12,14歳編において、成績が悪かったり、問題行動を起こしたりした同級生が次々と消える。そして、消えていったことを誰も不思議に思わない。さらには主人公たちに近しい人物も消えてしまう。16話までで、この原因は明らかになる。

1. ごく低確率で発生する最悪の事態への憂い。
2. 少数の犠牲を知っていても、社会全体のシステム維持のためには変えられない。如何しようも無い。

この手の話から、自分はナチスドイツを彷彿とさせる「優生思想」、また、1人の犠牲によって成り立つ理想郷である「オメラスから歩み去る人々」、現代で言えば「新型コロナ感染症患者に対する行き過ぎた処置」、「原発処理水問題」など、現代社会につながるものを感じた。

16話までで、主人公の最大の友人で、恋人であるマリアは、社会に戻れば消されることを恐れ、守とともに失踪する選択をする。「この世界はおかしい」と神栖66町社会とは反対の立場をとる。この流れから、セカイ系おじさんワイとしては、
数年後、マリアたちが生きていることが発覚し、

マリア・守(個人主義的社会) vs  神栖66町の大人たち(全体主義的社会)

の戦争?が始まり、果たして、主人公はどの世界を選択するのか...?というものが考えられた。ハズレですた!

 

考えられる展開2  バケネズミの高知能化(人間化)と叛逆

これが正解に近いのかな?たった数年で、バケネズミの社会は高度化していく。さとるくんはバケネズミが人間に似すぎていくことに気持ち悪さを覚えている。そこに若干の伏線を覚える程度で、この線はないと即却下してしまた自分が恨めしいなり!

 

このように展開2のように後半は進んでいく。十分にネタバレしてしまった。

 

実社会の問題と重ねて

この作品で訴えていることは「想像力」である。この文言がなければ(なくても十分ではあるが)、多くの人は1000年後のディストピアの世界で、偽りの神として世界を牛耳ってきた人間に対し、異形のものに作り変えられてしまった元人間が抗うという、そんな話になる。そして、ようやっとその話になるのが後半9話であり、人によってはそれまでの話は説明程度で眠いと思う人もいるだろう。

しかし、重ねていうがこの話における著者の主張は「想像力」だ。そして、この想像力が必要な問題は、この作品、および実社会にそれぞれ存在する。

この作品において、想像力に関連する問題として以下のものが存在する
A 神栖66町の全体主義的社会(子供に生存権が存在しない)
A 子供に自由がなく、運命に従順に生きることを良しとされる社会
B 人類とバケネズミの関係
C バケネズミの社会

Aと書いたところは、これまでの神栖66町では「想像力が否定されていた」ことを意味している。前半パート、主人公は大人たちののぞむ「ただ何も考えなくていいから、従順に育つ」ことに対して抗う。この全体主義的社会において、特に子供に対して、まるで深く考えること、想像させることを拒否させるような社会に思える。

Bと書いたところは、他者に対する思いやり(想像力)を意味する。
この作品を視聴して感じた違和感は「主人公以外に、下等のものとされるものへの慈愛の気持ちで溢れている者がいない」ことだ。往々にして、村の重鎮だとか、老人は、だいたいそういう慈愛に満ちたようなキャラに設定されがちだが、倫理委員会議長である富子様(多分誤字)は反逆の狼煙を上げたバケネズミに煉獄の苦しみをあわせることを町民たちに約束する。
最後のシーンで主人公は、スクイーラに対し、感謝の気持ちをあらわにし、永遠に続く拷問の苦しみから解放(○)してあげる。バケネズミに対してこの感情を抱いたのはおそらく彼女だけだろう。

Cと書いたところは、Bに近いが、同じ人類なのに下等のもの(異形のもの)と相手の種族を捉えた上で、自分の種族の繁栄に利用する悍ましい行為・社会を指す。これはバケネズミが、人間の子供をさらい、バケネズミの子供として育てることでニセ悪鬼を量産・世界征服を企んでいたこと、また母である女王を種族の繁栄のためだけに利用する歪んだ思想を指す。

これらの問題は過去から現在につながる実社会にもあげられる。

Bの問題は、大英帝国によるアボリジニ虐○や日帝による台湾統治時代の霧社事件などが想起される。これらの問題は現代まで禍根を残す。

Cの問題は、これをネット上にあげたら某国家に消される危険があるが、某国の北西地域における問題が、今現在も起きているだろう。ナチスドイツ顔負けの所業を行なっている。子供はさらわれ、○○人として洗脳され、さらには臓○売買に利用される子供までいる。

 

こういった社会問題に対し、著者(主人公)は「想像力で変わる」という優しいメッセージを残している。優しい気持ちだけではどうしようもならない問題はある。世の中そこまで生易しくない。抑止力としての武器は必要かもしれない。

しかし、我々は同じ人間なのだ。相手をルッキズムや背景にとらわれることなく同じ人間として認識し、そして人間であることは、考え、想像することができるということなのだ。

きっと変われる、想像力を持った同じ人間なのだから

そういった優しく温かいメッセージが裏にはあるのだと考えた。

長くなるので、次の投稿でゆゆゆとの比較考察を行う。